恋は私の鎖骨くらいどこにあるかわかりません。
探しても探しても、姿を現してはくれません。
ひょっとしたら、そもそも恋や鎖骨は存在しないんじゃないか。もしかして、恋も鎖骨も雑誌やテレビが作り上げた虚像なんじゃないか。あなたの恋も、私も鎖骨も、山崎まさよしのOne more time, One more chance状態なんじゃないのか。
そんな馬鹿げた気持ちが膨らんでは萎み、膨らんでは萎んでいます。
ことの発端は、私の友人になかなか恋人ができないとぼやいていたことから始まります。比較的出会いの多い職業である私は、恋の出会いも本気になればいくらでもありそうな気がします。でも、彼女のように毎日同じメンツ、同じ場所、同じ時間帯で生活していると、おのずと出会いは少なかろうと思うのです。
彼女は恋を、私は鎖骨を、自分の環境から見つけ出すのが難しくなっています。
ところで、ずいぶん前から私が唱え続けている『メンクイに幸なし』というマイ格言があります。私の経験則上、メンクイの女性は須らく幸福を取り逃しているように思えるのです。
恋は私の鎖骨くらい見つけるのが難しいとは言うものの、素敵な男性からお誘いがあっても、メンクイの人はそれを断ったりするのです。「顔が好みじゃない」という理由で!!喉から手が出るほど欲しいはずの恋のチャンスかもしれなくても!!これが鎖骨への誘いだったら私、迷わず飛び込んでいるところです。
信じられません。顔がなんぼのもんじゃい。
そういう人は、きっとお父様やお兄様などのご家族に顔の整った方がいたのだと思うのです。私がメンクイでない理由も、私が眼鏡男子が好きな理由も、父にあると思っています。
父は、幼い私の小さな社会の中で初めて認識した異性であり、唯一の異性でした。父は眼鏡をかけています。私にとっての異性は、最初から眼鏡とワンセットだったのです。つまり、私は心のどこかで眼鏡をかけていない男性を「何か足りない異性」と認識している恐れがあります。さらに言えば、私は小さなころ、父はハンサムでありカッコイイ人だと思っていました。これについては今もって謎ですが、恐らく環境に関しての自己肯定がひじょうに強い子供だったのだと思います。
そのおかげで、私は多少顔がアレでも、別にそのことがその人にとっての落ち度だとは思わないのです。というか、眼鏡の方が重要なんです。それも、近眼の眼鏡がいいんです。ケント・デリカットみたいなのは同じ眼鏡男子でもちょっと違うのです。むしろ、仲本工事みたいに眼鏡で目が小さくなってしまっている方が正しい眼鏡男子に思えてなりません。
メンクイに話を戻しましょう。
メンクイの人は、相手に整った顔立ちを要求しているので、必然的に出会いのハードルが高くなってしまいます。そのハードルを下げたら、もしかしたら出会いの数は飛躍的に多くなるかもしれないのです。
これが鎖骨なら、何かのハードルを下げたところでいっこうに手に入らないのですから、顔のスペックを下げるくらいやったっていいと思うのです。
メンクイに幸なし、と言いました。
彼女たちが理想通りの顔の男性と恋愛が成立するのはとても困難ではありますが、可能性はゼロではありません。そんな難しい状況からの恋愛ですから、手に入れた時は多少クズでもヒモでもそれを手放す気持ちにはなれないでしょう。私も、もしも立派な鎖骨を手に入れたら修行僧のように食事をしなくなるかもしれません。双方、それが幸福なのかどうかはさておき。
もしかしたら、メンクイという執着から解き放たれた時、本物の出会いがあるのかもしれません。私も、鎖骨に対する執着を捨てたら、こんなところに鎖骨があった!なんていう発見があるのかもしれません。
ちなみに、私の友人はメンクイではありませんが、大江千里さんじゃないとどうしてもダメみたいで、それはそれでピンポイントすぎて私の鎖骨どころの話ではありません。
以上で、私のメンクイと鎖骨の考察を終わりにしたいと思います。
ご精読、ありがとうございました。
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