2017年5月24日水曜日

メンクイと鎖骨を考察する

恋は私の鎖骨くらいどこにあるかわかりません。
探しても探しても、姿を現してはくれません。

ひょっとしたら、そもそも恋や鎖骨は存在しないんじゃないか。もしかして、恋も鎖骨も雑誌やテレビが作り上げた虚像なんじゃないか。あなたの恋も、私も鎖骨も、山崎まさよしのOne more time, One more chance状態なんじゃないのか。

そんな馬鹿げた気持ちが膨らんでは萎み、膨らんでは萎んでいます。

ことの発端は、私の友人になかなか恋人ができないとぼやいていたことから始まります。比較的出会いの多い職業である私は、恋の出会いも本気になればいくらでもありそうな気がします。でも、彼女のように毎日同じメンツ、同じ場所、同じ時間帯で生活していると、おのずと出会いは少なかろうと思うのです。

彼女は恋を、私は鎖骨を、自分の環境から見つけ出すのが難しくなっています。

ところで、ずいぶん前から私が唱え続けている『メンクイに幸なし』というマイ格言があります。私の経験則上、メンクイの女性は須らく幸福を取り逃しているように思えるのです。

恋は私の鎖骨くらい見つけるのが難しいとは言うものの、素敵な男性からお誘いがあっても、メンクイの人はそれを断ったりするのです。「顔が好みじゃない」という理由で!!喉から手が出るほど欲しいはずの恋のチャンスかもしれなくても!!これが鎖骨への誘いだったら私、迷わず飛び込んでいるところです。

信じられません。顔がなんぼのもんじゃい。

そういう人は、きっとお父様やお兄様などのご家族に顔の整った方がいたのだと思うのです。私がメンクイでない理由も、私が眼鏡男子が好きな理由も、父にあると思っています。

父は、幼い私の小さな社会の中で初めて認識した異性であり、唯一の異性でした。父は眼鏡をかけています。私にとっての異性は、最初から眼鏡とワンセットだったのです。つまり、私は心のどこかで眼鏡をかけていない男性を「何か足りない異性」と認識している恐れがあります。さらに言えば、私は小さなころ、父はハンサムでありカッコイイ人だと思っていました。これについては今もって謎ですが、恐らく環境に関しての自己肯定がひじょうに強い子供だったのだと思います。

そのおかげで、私は多少顔がアレでも、別にそのことがその人にとっての落ち度だとは思わないのです。というか、眼鏡の方が重要なんです。それも、近眼の眼鏡がいいんです。ケント・デリカットみたいなのは同じ眼鏡男子でもちょっと違うのです。むしろ、仲本工事みたいに眼鏡で目が小さくなってしまっている方が正しい眼鏡男子に思えてなりません。

メンクイに話を戻しましょう。

メンクイの人は、相手に整った顔立ちを要求しているので、必然的に出会いのハードルが高くなってしまいます。そのハードルを下げたら、もしかしたら出会いの数は飛躍的に多くなるかもしれないのです。

これが鎖骨なら、何かのハードルを下げたところでいっこうに手に入らないのですから、顔のスペックを下げるくらいやったっていいと思うのです。

メンクイに幸なし、と言いました。
彼女たちが理想通りの顔の男性と恋愛が成立するのはとても困難ではありますが、可能性はゼロではありません。そんな難しい状況からの恋愛ですから、手に入れた時は多少クズでもヒモでもそれを手放す気持ちにはなれないでしょう。私も、もしも立派な鎖骨を手に入れたら修行僧のように食事をしなくなるかもしれません。双方、それが幸福なのかどうかはさておき。

もしかしたら、メンクイという執着から解き放たれた時、本物の出会いがあるのかもしれません。私も、鎖骨に対する執着を捨てたら、こんなところに鎖骨があった!なんていう発見があるのかもしれません。

ちなみに、私の友人はメンクイではありませんが、大江千里さんじゃないとどうしてもダメみたいで、それはそれでピンポイントすぎて私の鎖骨どころの話ではありません。

以上で、私のメンクイと鎖骨の考察を終わりにしたいと思います。
ご精読、ありがとうございました。


2017年5月12日金曜日

ストレスについて

皆さんはストレスとどうお付き合いしていますか?

多くの人はストレスなしの生活など現実的なこととは思えないようです。ストレスのない私にだって、ストレスに感じることはあります。でも、たぶんそれはものの数分でなくなってしまいます。ストレスフリー。これはカロリーフリーくらい魅力的な言葉です。ストレスフリーの第一人者といえば、間違いなく私の父なのですが、ストレスフリーな人は周囲にストレスを与えるので注意が必要です。

江戸っ子は宵越しの金は持たないと言いますが、私は宵越しのストレスは持たない、というマインドで生きています。意識をしているわけではありませんが、私の場合、眠るとたいていのストレスは味が薄くなります。何日かかかることもあるけど、眠った数だけストレスはどんどん薄口になります。

いつまでも怒ってたり気にしていたりするのは執着です。執着をせずにいるのは難しい人もいるかもしれませんが、不幸なことに執着をしても自分の幸福はそこにはありません。

この執着の話なのですが、子供のころ、父が持っていた般若心経を読み解く本みたいなタイトルの本をこっそり拝借して読んで知りました。執着から解き放たれると、とっても自由になる、みたいなことが書いてあったと記憶しています。

子供のころに読んだその本の影響で、私は「執着を解き放とう!」というマインドが形成されました。そして、執着しないマインドの私は自由を手に入れ、周囲から「自由すぎるよ」と注意されるのであります。ハッ、私も父と同様に周囲にストレスを与えていたのでは…。今頃気が付くなんて…。

私の場合、毎日同じ職場に行くわけではありませんし、毎日同じ人間関係の中で濃密な一日を過ごすということもないので、そういった固定の場所や人に対するストレスがない、というのが宵越しのストレスを持たないことができている理由なのかもしれません。

ただ、私は、自分の生命力を脅かすようなストレスからは直ちに逃げるべきだと思うのです。逃げていいと思うのです。そこにいるのを止めていいと思うのです。自分を不幸にするものはあっさり手放すに限ります。でも、それができないこともあるでしょう。その時には、私がお話を聞いてあげましょう。私じゃ嫌ならお話しできるお友達に。話してしまうとモヤモヤが薄らぎます。ストレスの味が薄くなります。

例え話として、最近私が感じたストレスを書こうと思ったのですが、恐ろしいことに全然思い出せません。ストレスを忘れるというよりは、もっと大切なものまで忘れてしまっている父がよくやるアレに似ているような気がします…。

まぁ、とにかく私が強くストレスを感じた日は、必ず酔っぱらうことにしています。一人で酔っぱらうこともあるし、誰かと飲みに行くこともあるし。お酒でダメダメになった自分から復帰しようとするときの、あの吐き気と深酒への後悔が私の次の行動へのバネとなるのです。次の行動を起こしたら、その結果にしか興味がありません。だから、その時感じたストレスは過去のものとして清算されてしまっているのです。

あくまでも私の場合、ですけどね。

そういえば、ずっと昔に、仲の良かった女の子がフラれてしまったことがありました。「フラれちゃった」とぽろぽろ泣くその子に私は「じゃ、飲みに行くよ!」と誘いました。でも、その子は下戸でお酒が飲めないのです。それでも私は彼女を酒場に連れて行きました。当時はそんなにお金もなかったので、美味しい割には安いみたいな居酒屋だったと思います。そこで、彼女は美味しいおつまみとデザートを食べ、ジュースを飲み、私は勢いよくお酒を飲みました。飲めない彼女の代わりに私がたくさん飲むことにしたのです。そして私はものすごく酔っぱらって、帰りに気持ち悪くなって、電柱の脇の草むら辺りにゲーゲー吐きました。彼女は私の背中をさすりながら「大丈夫?」と心配な顔。そんな彼女の心配顔を見ていたら、この状況がとても滑稽なことのように思えて、二人で大笑いしたのを覚えています。その後、どうやって帰ったかは覚えてないのですが、翌日、二日酔いのさなか、彼女からメールがありました。

「なんか酔っぱらってボロボロになった おぬき を見てたら、フラれたことなんてどうでも良くなっちゃった!なんかあんがと!」

いろいろ複雑でしたが、彼女が元気になってくれて良かったです。あの頃の私は自虐で人を救えるか、がテーマだったのです。考えてみたら、私にはその都度いろいろなテーマがありました。今でもあります。今はダイエットです。「こんなに食べても痩せられたよ!」って言いたいんです。

頑張ります。

あ、これはストレスの話のはずだったのに。